로그인白銀の髪を持つ青年が腹を抱えて笑い続ける一方で、ミオの腕に収まっている小さな黒竜は本気で機嫌を損ねたらしく、鼻先から何度も火花を散らしていた。
「いやあ、本当に申し訳ありません、陛下。笑ってはいけないとは分かっているんですが、三日前に城を出るときは『私が戻るまで評議会を動かすな』なんて、ものすごく怖い顔をしていた方が、人間の女性の腕の中で毛布に包まれているんですよ。これを見て平静でいられるほど、俺は長生きしていませんって」
「グルルルルル……」
「分かりました、分かりました。もう笑いませんから、その火をこちらへ向けるのだけはやめてください。今月二度目なんですよ、前髪を燃やされるの」
青年はそう言いながらも口元を押さえており、どう見ても反省している様子はない。
ミオは腕の中のカエルと青年を交互に見比べてから、恐る恐る尋ねた。
「あの……お知り合いなんですよね?」
「もちろんです。むしろ知らない男が陛下にこんな口を利いていたら、今頃ここに首が転がっていると思いますよ」
「朝から怖い説明をしないでください」
「これは失礼しました。人間の女性に自己紹介するときは、もう少し柔らかく言わないといけませんね。俺はレグル・ファーン。北方狼騎士団の団長をしています。そこの気難しい黒竜――失礼、我らが尊き竜王カエル・ヴァルドレイク陛下の部下です」
青年――レグルは胸に手を当て、芝居がかった礼をした。
銀色の狼耳までぴんと立てているので、礼儀正しいのかふざけているのか判断しにくい。
「ミオです。相沢美緒。この世界ではミオと呼ばれています」
「ミオ殿。なるほど、あなたが」
レグルが意味ありげに目を細めた。
「……何ですか、その『なるほど』は」
「いえ。俺たちは昨夜から陛下を探していたんですが、途中で妙な魔力の痕跡を見つけましてね。陛下の呪いの気配が突然薄くなったと思ったら、近くから今まで嗅いだことのない聖力まで感じた。それで何が起きたのかと思って来てみれば、人間嫌いの陛下が人間の女性に抱かれている。これはもう、『なるほど』以外に言葉がありません」
「抱かれているという表現をやめていただけませんか。事情を知らない人が聞いたら、とんでもない誤解をします」
「ですが抱いていますよね」
「今は竜だからです!」
腕の中のカエルが、何となく誇らしげに胸を張った。
「あなたもそこで得意そうな顔をしないでください」
ミオが額を指先で軽く押すと、竜王は不服そうに「グル」と鳴いた。
それを見たレグルがまた吹き出しかけたため、今度はカエルの鼻からはっきりと炎が出た。
「熱っ! 陛下、だから前髪はやめてくださいって!」
「自業自得だと思います」
「ミオ殿、もう陛下の扱いを理解してません?」
「昨日拾ったときから、だいたいこんな感じでしたので」
「昨日拾った」
レグルの表情が止まった。
「はい。雪の中で倒れていました」
「拾った」
「そうです」
「陛下を?」
「知らなかったんです。小さい黒い竜が怪我をして震えていたので、放っておけなくて」
レグルはしばらく何も言わなかった。
笑い飛ばすのかと思ったが、意外にもその顔からふざけた色が消えた。
「……それで、傷の手当てまで?」
「大したことはしていません。傷を洗って薬草を塗っただけです。それから寒そうだったので毛布へ入れて、少し食べさせました」
「何を?」
「スープです」
その答えを聞いた瞬間、レグルがカエルを見る。
カエルも彼を見る。
二人の間で、ミオには分からない何かが通じたらしい。
「陛下」
レグルの声が低くなった。
「味が?」
カエルが小さく頷く。
レグルの顔から完全に笑みが消えた。
「……本当に?」
もう一度、カエルが頷いた。
それまで軽薄にすら見えた青年の目が大きく見開かれた。
「そんな馬鹿な。城中の魔術師も、各地から呼んだ治癒師も、神殿の連中ですら何もできなかったのに」
「そんなに大変なことなんですか?」
ミオが尋ねると、レグルはしばらく答えなかった。
何をどこまで話していいものか迷っているようだったが、やがて苦笑した。
「大変どころじゃありません。陛下が味覚を失ったのは俺が生まれるよりずっと昔の話です。俺は今年で七十二になりますが、一度だって陛下が食事を楽しんでいる姿を見たことがありません」
「七十二?」
思わず話の本筋とは違うところに反応してしまった。
レグルが自分の顔を指差す。
「何か?」
「二十代くらいかと思いました」
「狼族は百五十を過ぎるまでは若者扱いですから」
「異世界の年齢感覚、難しすぎません?」
「そうですかね。陛下なんて二百を過ぎても独身ですし」
「グルルル」
「分かりました、余計でした」
どうやら年齢を重ねても、独身をいじられるのはどこの世界も似たようなものらしい。
そんなことを考えている場合ではない。
「その呪いについて、詳しく聞いてもいいんでしょうか」
ミオが尋ねると、レグルはカエルを見る。
カエルは少し考えたあとで頷いた。
「俺が話しても?」
また頷く。
「こういうときは人間の姿に戻って自分で説明してくださいよ、陛下」
「キュ」
「戻れないんですね。……やっぱりまた感情が原因ですか?」
「グル」
「聞かないことにします」
レグルは苦笑しながら雪原へ目を向けた。
北狼たちはまだ伏せたまま待っている。先ほどまでミオには恐ろしい魔物の群れにしか見えなかったのに、彼らが竜王の臣下だと分かると、不思議と見え方まで変わってきた。
もっとも、牙だけは相変わらず恐ろしく大きい。
「陛下が受けている呪いは、俺たちは《灰色の枷》と呼んでいます。最初は味覚と嗅覚、それから睡眠。次に痛覚の一部、最後には感情まで少しずつ奪う。治す方法は分かっていません」
「感情まで?」
「ええ。喜びも悲しみも、誰かを愛しいと思う気持ちも、年を追うごとに薄れていく。俺が子供だった頃の陛下は、今よりもっと笑ったと親父から聞いたことがあります」
ミオは腕の中の小さな竜を見下ろした。
黄金の瞳がこちらを見上げている。
昨日からのカエルしか知らない自分には、彼が感情を失っているようには見えなかった。
怒る。
呆れる。
少し笑う。
それどころか、かわいいと言えば子竜になり、照れて火まで吐く。
「でも、この人、結構感情豊かですよ」
「俺もさっきからそれが一番怖いんですよ」
「怖い?」
「だって陛下が、こんな顔をして人間に抱かれているんですよ。明日太陽が西から昇っても驚きません」
「グルルル!」
「陛下、今日はよく怒りますね。昔みたいで俺はちょっと嬉しいですよ」
レグルは笑っていた。
けれどその笑みの奥には、ほんの少しだけ別の感情が混じっていた。
安堵。
たぶん、この人もずっと心配していたのだろう。
二百年を生きる竜王を、「王だから生きていてもらわなければ困る」という理由だけではなく、一人の人間――ではないにしても、一人の大切な誰かとして。
そう思うと、ミオはレグルに少し親近感を覚えた。
「だから俺からもお願いします、ミオ殿。少なくとも一度、ヴァルディアまで来てもらえませんか。あなたに永久にここへいろなんて言いませんし、嫌ならその後で人間の町へ送ります。でも、陛下に何が起きているのか確認するだけでも、俺たちにとってはとんでもなく大きなことなんです」
「……さっき、カエルにも同じようなことを言われました」
「陛下は何と?」
「結婚しろって」
レグルが固まった。
それから、ゆっくりカエルを見る。
「……陛下?」
「グル」
「それ、ものには順序ってものがあるでしょう」
ミオは思わず頷いた。
「そうですよね!」
「普通は城へ連れ帰る、食事を振る舞う、贈り物をする、二人で出かける、それから寝室へ連れ込んで――」
「途中からおかしくなっています!」
「失礼。狼族の順序でした」
「絶対に参考にしませんからね」
「人間は違うんですか?」
「少なくとも私は違います」
「なるほど。それで、陛下は断られたと」
「当然です」
レグルは笑いを堪えながらカエルへ近づき、その場へしゃがみ込んだ。
「陛下、二百年待てたんですから、あと数日くらい待ちましょうよ。相手が逃げないうちに婚姻を結べば勝ち、みたいな古代竜族の考え方は今時流行りませんって」
「グルル」
「何と言っているんですか?」
「たぶん、『黙れ』です」
「便利ですね、その翻訳」
「長い付き合いですから」
レグルが肩をすくめた。
しばらくして、狼たちが風雪を防ぐための簡易天幕を広げ始めた。どうやら竜王捜索隊として相応の装備を持ってきていたらしく、ミオが昨夜苦労して張ったものとは比べものにならないほど大きな天幕が、あっという間に岩場の奥へ作られていく。
火を焚き、温かい茶まで用意された。
何よりありがたかったのは、レグルが持ってきた干し肉とパン、乳製品を少し分けてくれたことだった。
「助かります。でも、いただいてしまっていいんですか?」
「もちろん。陛下を助けてくださった方へ朝飯すら出さなかったなんて知られたら、城の料理長に俺が殺されます」
「魔物の国でも料理長って強いんですね」
「どこの国でも厨房を敵に回したら終わりですよ」
「それは分かります」
妙なところで意気投合した。
ミオは受け取った食材を見てから、小鍋を手に取った。
「せっかくですから、皆さんの分も何か作りましょうか」
レグルが驚いた。
「いいんですか?」
「食材をいただきましたし、昨日の残りだけではカエルが不満そうなので」
腕の中の黒竜がぱっと顔を上げた。
「ほら」
「陛下、分かりやすすぎません?」
「昨日もこんな感じでした」
ミオは笑いながら火の前へ座った。
干し肉と野菜を刻み、今朝残していた豆も入れる。
狼族が持っていた硬い白チーズを少し削ると、昨日より濃厚なスープになりそうだった。
「ミオ殿は、本当に料理人なんですか?」
レグルが隣へ座る。
「いいえ。日本にいた頃はホテルで働いていましたけど、料理人ではありませんでした。こちらへ来てから必要に迫られて作ることが増えただけです」
「日本?」
「あ……私が生まれた世界です」
「別世界から来たんですか?」
「三年前に突然呼ばれました」
ミオは野菜を切りながら、なるべく淡々と説明した。
聖女として召喚されたこと。
けれど期待されていたような攻撃魔法を持っていなかったこと。
代わりに《聖卓》という能力が発現したこと。
そして昨日、婚約も聖女の地位も失い、国を追放されたこと。
レグルは途中から一度も冗談を挟まなかった。
最後まで聞いてから、眉間に深い皺を寄せた。
「それ、追放された日が昨日なんですよね?」
「はい」
「その日の夕方に、雪原へ放り出された?」
「国境までは馬車でした」
「いや、そういう問題じゃないでしょう。この季節の北部へ、歩きで?」
「私も少しどうかとは思いました」
「少し?」
「怒っても仕方ないですから」
ミオは笑った。
レグルは笑わなかった。
「ミオ殿」
「はい?」
「怒っていいところでは?」
包丁を動かしていた手が止まった。
何となく、マリアに言われたことを思い出した。
自分はつらいときほど妙なことを言って誤魔化す、と。
「……怒りましたよ」
「本当に?」
「大広間で王太子へ卑怯って言いました」
「それだけ?」
「靴の中に毎朝小石が入ればいいとも思いました」
レグルが数秒黙り、吹き出した。
「そこなんですか」
「十分ひどい呪いですよ。毎朝ですよ?」
「人間の聖女って、もっとこう、神罰を落としたりするものだと思ってました」
「私はそういうの無理です」
「なるほど。陛下が気に入るわけだ」
ミオは眉を寄せた。
「料理がですよね」
「さあ、どうでしょう」
妙に含みのある言い方だった。
そのとき、腕から下ろしていたカエルがレグルの足首へ噛みついた。
「痛っ! 陛下、何するんですか!」
「グル」
「余計なこと言うな、ですか? 分かりましたって」
「本当にそれで会話が成立しているんですね」
「まあ七十年くらい仕えてますから」
ミオは、また年齢感覚がおかしくなりそうだった。
やがてスープが出来上がった。
レグルの部下にも器を渡し、雪の中で待機していた狼たちにも、食べられるものか確認したうえで肉と煮汁を分ける。
全部で十数人分。
量は多くないが、それでも一つの鍋を囲めば妙な連帯感が生まれる。
「では、いただきます」
ミオが手を合わせた。
レグルが不思議そうに見ている。
「今のは?」
「私の故郷の習慣です。食べ物をいただく前に言います」
「神への祈り?」
「それだけじゃないと思います。作ってくれた人や、食材になったものや、いろいろなものへ感謝する言葉です」
「面白いですね」
レグルも真似をして両手を合わせた。
「いただきます」
それを見た部下たちも、ぎこちなく真似をする。
カエルだけは早く食べたくて仕方がないらしく、器の前で尾を揺らしていた。
「あなたもです」
「キュ?」
「一緒に食べるなら、いただきます」
「グル」
「王様だからしなくていいという理屈はありません」
レグルが顔を背けて肩を震わせた。
「笑わない」
ミオが言うと、彼は慌てて真顔を作った。
「失礼しました」
カエルはしばらく不満そうだったが、とうとう前足をちょこんと揃えた。
「キュ」
「はい。いただきます」
スープを口にした瞬間だった。
淡い金色の光が鍋から広がった。
ミオ自身には見慣れた《聖卓》の光だった。
食卓を囲む者の敵意を和らげ、軽い毒や呪いを薄める。
王宮では「地味」と散々言われた力。
ところが周囲の狼族たちが一斉に動きを止めた。
レグルの狼耳がぴんと立つ。
「……何です、これ」
「私の聖力です。食事を一緒にすると、しばらく喧嘩ができなくなります」
「それだけ?」
「毒と軽い呪いも弱くなります」
「それだけって……」
レグルは呆れたようにミオを見た。
「ミオ殿、あなたのいた国、本当に正気ですか?」
「よく言われました。逆の意味で」
「これが『役立たず』?」
「戦場で敵を倒せませんから」
「敵を倒さず戦を止められるなら、そっちのほうがよほど厄介でしょう」
ミオは返事ができなかった。
その評価を、初めて聞いたからだ。
自分の能力を役立たずではなく、「厄介なくらい強い」と言われたのは。
「俺たち狼族と人間は、この百年で何度も戦っています。竜族と巨人族だって仲がいいとは言えない。もし敵対する種族を同じ卓につかせることができて、その間だけでも武器を置かせられるなら、国一つの価値がありますよ」
「……そんな大げさな」
「大げさじゃありません」
レグルが真顔で言った。
「戦場で一番難しいのは敵を殺すことじゃない。殺すのをやめさせることです」
ミオの胸の奥で、何かが揺れた。
三年間、聞きたかった言葉だったのかもしれない。
けれど今さら認めるのも悔しくて、ミオは鍋へ視線を落とした。
「でも、結局は食事をしている間だけです」
「それで十分ですよ。その間に話せる。話せれば、次がある」
レグルの言葉に、ミオはしばらく何も答えられなかった。
横ではカエルが黙々とスープを食べている。
昨日と同じように。
いや、昨日以上に大切そうに。
「……おいしいですか?」
思わず尋ねた。
カエルは顔を上げると、迷うことなく大きく頷いた。
その瞬間、ミオの口元が緩んだ。
「それなら、よかったです」
ところが同時に、黒い子竜の身体から黒金色の光が溢れ出した。
「あ」
レグルが嫌な顔をした。
「戻る」
光が膨らみ、小さな竜の姿を覆う。
ミオは慌てて顔を逸らした。
昨朝の光景が頭をよぎったからだ。
しかし今回はカエル自身も学習したらしく、魔力によって衣服まで同時に作ったようだった。
「もう見ていいぞ」
低い声に戻っている。
「本当に服、着ていますよね?」
「ああ」
「昨日のことがあるので信用できません」
「確認してから言っている」
「どうやって確認したんですか」
「自分の身体だぞ」
もっともな返事だった。
ミオが恐る恐る振り返ると、黒い正装姿のカエルが器を手に座っていた。
「今度は大丈夫ですね」
「ああ」
「では、改めて話をしましょう」
「結婚の話か」
「どうして嬉しそうなんですか」
「そう言ったのは君だろう」
「話すと言っただけで、結婚すると言ってません」
カエルは少し残念そうな顔をした。
昨日までなら、そんな変化には気づかなかったかもしれない。
けれど今は、意外と分かる。
レグルもそれを察したのか、口元をにやつかせていた。
「レグルさん」
「何も言ってませんよ」
「顔が言っています」
「狼耳は嘘をつけないもので」
「便利な言い訳ですね」
ミオは息を吐き、カエルへ向き直った。
「私はあなたの国へ行くこと自体は、前向きに考えています」
「では来い」
「最後まで聞いてください」
「聞いている」
「途中で結論を出さないでください」
一つ一つ言わなければ駄目らしい。
「問題は、どういう立場で行くかです。さっきは客人と言いましたけど、本当にそれで大丈夫なんでしょうか。人間を嫌っている人が多い国へ、突然人間の女が竜王の客として行くんですよね」
カエルが答える前に、レグルが微妙な顔になった。
その反応をミオは見逃さなかった。
「……やっぱり何かあります?」
「まあ、ありますね」
「何ですか」
「竜王の私的な客人というだけだと、城の中では守れても、王国法上の扱いが少し面倒なんです。ヴァルディアは複数種族の連合国家なので、外国人には各種族領で別々の許可が必要になる場合があります」
「つまり、自由に歩けない?」
「特に人間となると。人間王国との関係が良くないので」
「では、私は城から出られないということですか?」
「可能性はあります」
それは困る。
王宮から解放されたのに、次の城で閉じ込められては意味がない。
「何か他の方法は?」
レグルがカエルを見る。
カエルは迷わなかった。
「妻になる」
「却下します」
「まだ説明していない」
「だいたい分かります」
「王族の配偶者には、ヴァルディア全土で竜王家の保護権が適用される。種族領の許可も不要だ」
「便利すぎるからって結婚を身分証明書代わりに使わないでください」
「婚姻契約で期間を定めることもできる」
ミオは動きを止めた。
「期間?」
「ああ」
カエルは淡々と説明した。
「ヴァルディアには古くから契約婚という制度がある。政治的事情や種族間の同盟で用いられるもので、双方が条件と期間を定め、期限を迎えれば合意のもとで解消できる」
「離婚とは違うんですか?」
「正式な婚姻ではあるが、初めから終了条件を設定する。契約期間中に双方が望めば通常婚へ移行できるし、望まなければ期限で終わる」
レグルが付け加える。
「珍しい制度ではありませんよ。寿命の違う種族同士だと、普通の婚姻制度では揉めることもありますから。三十年契約とか、五十年契約とか」
「単位が長いんですよ」
「竜族にとっては短いです」
やはり年齢感覚が違う。
ミオは少し考えた。
「一番短くて?」
「法的には一年」
カエルが答えた。
一年。
三十年や五十年を聞いたあとでは異様に短く感じる。
「つまり、一年間だけ形式上あなたの妻になれば、私はヴァルディア国内を自由に動ける?」
「ああ」
「あなたから離れて、自分で仕事を探しても?」
「契約に明記すればできる」
「一年後、私が人間の町へ行きたいと言ったら?」
「止めない」
「本当に?」
「ああ」
「『やっぱり気が変わった』は禁止です」
「契約を破れば竜王であっても法廷に立つ」
ミオは思わずレグルを見た。
「本当です?」
「本当です。まあ陛下を裁ける裁判官が胃痛になるでしょうけど」
「法律としては可能なんですね」
「ええ」
思っていたよりまともな国なのかもしれない。
それでも結婚という言葉の重さが消えるわけではない。
昨日まで、三年間婚約していた相手がいたのだ。
その翌日に別の男と結婚する。
形式上、一年だけとはいえ。
「……世間から見たら、私、ものすごく切り替えの早い女ですよね」
「誰にどう見られることを気にしている」
カエルが尋ねた。
「それは……」
答えようとして、止まった。
王都の人々。
貴族。
アドリアン。
リリア。
彼らにどう思われるか。
昨日までは、それが人生のほとんどを占めていた。
でも、もう王国から追い出された。
「別に、あの人たちに褒めてもらう必要なんてないんですよね」
口にすると、不思議なくらい単純だった。
「ただし」
ミオは人差し指を立てた。
「結婚するなら、条件があります」
カエルの黄金の瞳がわずかに輝いた。
「言え」
「まず期間は一年だけ。それ以上は今の時点では約束しません」
「ああ」
「私はあなたの所有物ではありません。出かける場所、会う人、仕事について、いちいち許可をもらう生活はしません」
カエルが少し考える。
「危険な場所は?」
「相談はします。でも命令は嫌です」
「分かった」
「それから、私の料理を食べたいなら作りますけど、毎日三食必ずという契約にはしません。私だって体調が悪い日もあるし、作りたくない日だってあると思います」
「……毎日ではないのか」
露骨に残念そうな顔をした。
「そこ、そんなに重要ですか」
「非常に」
「週に何回とかも決めません。私が無理をしない範囲です」
「交渉できないか」
「できません」
「一日一食」
「できません」
「二日に一食」
「食事回数を値切るみたいに交渉しないでください」
レグルがとうとう笑い始めた。
「陛下、国家間の条約より真剣じゃないですか」
「黙れ」
「はいはい」
ミオは三本目の指を立てた。
「そして一番大事です」
カエルが姿勢を正した。
「寝室は別です」
沈黙。
レグルが咳払いをして顔を背けた。
カエルだけが真顔だった。
「なぜだ」
「なぜって……契約結婚なんだから当然でしょう!」
「夫婦は同じ寝室を使うものでは?」
「本当の夫婦ならそういう人もいますけど、私たちは形式だけです。私は昨日まであなたの顔すら知らなかったんですよ」
「昨夜は同じ毛布で眠った」
「またそこへ戻らないでください!」
「そのときは問題なかった」
「小さな竜だったからです!」
「同一個体だ」
「だから理屈の話じゃありません!」
レグルの肩が震えている。
「レグルさん、笑うなら外へ出てください」
「申し訳ありません。でも、陛下が女性に寝室を拒否されて真剣に理由を考えている姿なんて、城に戻ったら絶対誰にも言えないなと思いまして」
「言ったら殺す」
「ほら、こういう人と同じ部屋で安心して寝られると思います?」
「説得力がありますね」
「お前はどちらの味方だ」
「面白いほうです」
「給料を下げるぞ」
「王が私情で給与を下げたら財務官に怒られますよ」
どうやら竜王と臣下の関係も、ミオが想像していたよりずっと人間臭い。
「とにかく寝室は別。勝手に入ってくるのも禁止。着替えている最中に入ったら、その時点で契約解除を検討します」
「扉を叩けばいいのか」
「叩いて、私が『どうぞ』と言ってから入ってください」
「分かった」
「本当に分かりました?」
「ああ」
「今のところ妙に素直ですね」
「君に嫌われると困るからな」
また、さらりと言う。
ミオは一瞬返事に困った。
「……料理のためですよね」
カエルは答えなかった。
その沈黙が妙に気になったが、深く考えるのはやめた。
「最後に、私はあなたの呪いを必ず治せるとは約束できません。私の能力が効いた理由も分からないし、次も同じとは限らない。治せなかったから契約違反、というのはなしです」
「分かった」
今度の返事には迷いがなかった。
「君が治せなくても責めない」
「それなら……」
ミオは一度息を吸った。
たった一日で人生が変わりすぎている。
昨日は王太子の婚約者だった。
今日は国外追放された無職。
そして今から、魔物大陸を治める竜王の契約妻になるかもしれない。
こんなことを日本にいる母へ話したら、何と言うだろう。
たぶん最初に、「相手の仕事は安定してるの?」と聞く気がする。
王なら、安定しているのだろうか。
暗殺されかけているので、あまり安定していない気もする。
そんな妙なことを考えているうちに、少しだけ肩の力が抜けた。
「……一年だけですよ」
カエルの目が大きく開いた。
「それは」
「まだ最後まで聞いてください。一年間、契約上だけあなたの妻になります。その間に私はヴァルディアで自分の居場所と仕事を探す。あなたの呪いについても、できる範囲で調べます。そして一年経ったとき、続けるか終わらせるか、改めて二人で話す。それなら」
ミオはまっすぐカエルを見た。
「契約結婚を受けてもいいです」
しばらく、誰も話さなかった。
カエルは本当に驚いたような顔をしている。
そんな顔もできるのかと思った直後、彼の身体から黒金色の光が漏れ始めた。
ミオは嫌な予感がした。
「待ってください。まさか今――」
ぽん、と音がした。
立派な正装だけを残し、再び手のひらほどの黒い子竜が現れた。
「やっぱり!」
レグルが腹を抱えた。
「陛下、喜びすぎでしょう!」
「グルルルル!」
「嬉しいと小さくなるんですね!」
「グル!」
「否定しても説得力ありませんから!」
ミオも笑いを堪えられなかった。
昨日、血塗れの竜王と聞いたときには恐ろしくて仕方がなかった男が、自分が一年だけ妻になると言っただけで、小さな竜になってしまった。
「……本当に、この人と結婚するのか、私」
呟くと、黒い子竜がこちらを見上げる。
「キュ」
そして当然のように、両前足をミオへ向かって伸ばした。
抱けということらしい。
「調子に乗らないでください。契約には『いつでも抱っこする』なんて条件ありませんからね」
「キュゥ……」
「その声はずるいって昨日言いましたよね」
結局、抱き上げてしまった。
レグルがにやにやしている。
「何ですか」
「いえ。お似合いですよ」
「まだ契約です」
「はいはい」
「その返事、絶対信じてませんよね」
「一年後が楽しみだなと思っただけです」
「一年後は契約終了かもしれません」
「そうですね」
どうしてそんなに楽しそうなのか。
ミオには分からなかった。
その日の昼前、一行は雪原を出発した。
狼族たちは人間の馬車よりはるかに頑丈な橇を用意しており、ミオの荷物もそこへ載せられた。
カエルはまだ小竜の姿から戻れず、当然のようにミオの隣へ座っている。
「自分で歩けるでしょう?」
「キュ」
「怪我人だから仕方ないですね。今日だけですよ」
「キュ」
「その顔を見る限り、絶対今日だけだと思ってませんね」
橇が動き始めた。
昨日まで自分が目指していた人間の町とは、反対方向へ進んでいく。
北へ。
さらに北へ。
人間が魔物の土地と呼ぶ場所へ。
しばらく進むと雪が弱まり、遠くの空に巨大な山脈が見えてきた。
その向こう。
雲の切れ間から、黒い塔が幾つも姿を現す。
高い城壁。
巨大な城。
そして空を飛ぶ、無数の翼ある影。
竜だった。
一頭や二頭ではない。
青い竜、赤い竜、白い竜。
そのさらに下には、遠目にも街らしきものが広がっている。
煙突から煙が立ち、道を荷車が走り、小さな家々が集まっている。
ミオは息を呑んだ。
「……あれが」
レグルが振り返った。
「ようこそ、とはまだ少し早いですが。あれがヴァルディア王国の北門都市です」
「魔物の国……」
想像していたものと違った。
もっと暗く、荒れ果て、血と炎に満ちた場所だと思っていた。
けれど遠くに見える街には灯りがある。
煙突から煙が上がっているということは、誰かが食事を作っている。
広場らしき場所では、小さな影が幾つも走り回っていた。
子供だろうか。
「普通の街なんですね」
ミオが思わず言うと、レグルが笑った。
「魔物だって腹は減りますし、寝る家もいりますし、税金には文句を言いますよ」
「最後だけ妙に現実的ですね」
「陛下が一番頭を抱えている問題です」
ミオの腕の中で、カエルが深くため息をついたように見えた。
そのときだった。
北門の上に立っていた兵士らしき者たちが、一行へ気づいた。
最初は竜王帰還を喜んでいるように見えた。
しかし次の瞬間。
一人がミオを指差した。
遠くからでも分かるほど、空気が変わった。
角を持つ兵士。
獣耳の兵士。
翼を持つ者。
皆の視線が、一斉にミオへ集中する。
そして門の上から、低い声が飛んだ。
「人間だ!」
その一言をきっかけに、ざわめきが一気に広がった。
「なぜ人間が陛下と一緒にいる!」
「国境から入れるな!」
「また人間が何か企んでいるんじゃないのか!」
先ほどまで穏やかに見えていた街が、一瞬で緊張に包まれる。
ミオは無意識に身体を固くした。
分かっていた。
こうなる可能性があることくらい。
それでも実際に敵意をぶつけられると、怖い。
昨日、自分を追い出したのは人間たちだった。
今日、これから暮らすかもしれない国でも、自分は人間だから嫌われる。
結局、自分にはどこにも居場所がないのではないか。
そんな考えが一瞬だけ胸をよぎった。
すると、膝の上にいた小さな黒竜が立ち上がった。
「カエル?」
黒金の光が弾ける。
次の瞬間、橇の上に竜王の人間姿が現れた。
今度は服もきちんと身につけている。
カエルはミオの前へ立つと、北門へ向かって顔を上げた。
その瞬間。
空気が変わった。
今までミオと口喧嘩をしていた男とは思えない。
圧倒的な王の威圧感が雪原を満たした。
門上にいた兵士たちが、一斉に膝をつく。
「聞け」
低い声なのに、街中へ響いた。
「この女はミオ。昨夜、私の命を救った者だ」
ざわめきが止まる。
カエルは続けた。
「そして本日より一年、私の婚姻契約者となる」
ミオは目を剥いた。
「ちょっと待ってください!」
しかし遅かった。
門の上だけではない。
城壁の向こうにいた者たちからも、驚愕の声が上がった。
「陛下が結婚!?」
「人間と!?」
「嘘だろ!」
「二百年断り続けてたのに!?」
最後の声が妙に生々しかった。
レグルは隣で腹を抱えている。
「レグルさん、笑ってないで何とかしてください!」
「いや、無理ですよ。これは今日中に王都まで広がります」
「今日中?」
「たぶん一刻もあれば」
「早すぎません!?」
「噂話に種族の壁はありませんからね」
ミオは両手で顔を覆いたくなった。
静かに魔物の国へ入り、まず様子を見て、それから自分の居場所を探すつもりだった。
なのに入国する前から「竜王の妻」として国中に名前が広まりそうになっている。
「カエル」
「何だ」
「私、目立たず暮らしたいって言いませんでしたっけ」
「聞いていない」
「言ったような気がします!」
「少なくとも契約条件にはなかった」
「そこを法律みたいに抜け道探さないでください!」
カエルは少し考え、それから妙に真剣な顔で言った。
「次の契約書に追加するか?」
「今すぐ追加してください!」
周囲の狼族たちから笑い声が漏れた。
城門の上にいる兵士たちまで、最初の険しい顔とは違う表情になっている。
ミオは頬が熱くなるのを感じながら、それでもカエルの背中を見た。
この男は、人間である自分を隠さなかった。
城へこっそり連れ込もうともしなかった。
皆の前で、自分が命を救った者だと言った。
そして自分を守る立場を、はっきり示した。
やり方は相変わらず雑で、相談くらいしてほしかったけれど。
それでも。
昨日、自分を捨てた男は大勢の前で「君でなくてもいい」と言った。
今日、自分の隣に立つ男は大勢の前で、自分の名を呼んだ。
その違いに気づいてしまい、ミオは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
けれど次の瞬間。
城門が開き、その向こうから物凄い勢いで一人の女性が走ってきた。
長い紫色の髪。
黒いドレス。
三角帽子。
いかにも魔女と呼ぶに相応しい姿の美女である。
彼女はカエルの前まで来ると、挨拶もせずに叫んだ。
「陛下! 三日も行方不明になったと思ったら、何で人間の女を連れて帰ってきて、しかも結婚までしてるんですか! 説明する順番というものがあるでしょう!」
ミオは思わずカエルを見た。
カエルもミオを見た。
「……あなた、国でも同じように怒られてるんですね」
「どうやらそうらしい」
「少し安心しました」
こうして追放聖女ミオの、魔物王国での最初の日は始まった。
歓迎の花束ではなく、竜王を怒鳴りつける魔女の声とともに。
第112話 店を一日まるごと任せたら、私の知らない新メニューが増えていました『ミオの食卓』を一日まるごと店員たちへ任せることになったのは、ミオ自身が言い出したことだった。西方獣人連邦で、自分がいなくても市場の人々が話し合いを続けられる仕組みを見てきた。王都へ戻ってからも、エナたちだけで昼営業を終えられた日があった。店主が不在でも店が壊れないことは、すでに頭では分かっている。だから次は、中途半端に厨房へ顔を出したり、閉店前だけ帳簿を確認したりするのではなく、本当に朝から晩まで店へ行かない日を作ってみようと決めた。決めたのだが。「やっぱり、開店前だけ顔を出したほうがよくないですか?」朝食の席でそう言った瞬間、向かいに座っていたカエルがパンを置いた。「昨日は行かないと言った」「言いました。でも、仕込みの最終確認だけなら仕事を取り上げることにはならないでしょうし、新しい仕入れ先から届く豆の状態も気になります。あと、マルタさんのお子さんの熱は下がったとは聞いてますけど、本人が無理して出てきてないか確認したいし」「それを店へ行くと言う」「十分だけです」「昨日もその話をした」「昨日は十五分って言いました」「今日は短くしただけ」「短くしたんだから進歩でしょう?」「違うと思う」妙に真面目な顔で否定され、ミオは口を閉じた。カエルは以前なら、店へ行かせないために命令するか、もっと露骨に不機嫌になったかもしれない。今はそうではなく、ただ昨日の約束を一つずつ確認してくる。「ミオが決めたんだろう。今日は店を任せるって」「はい」「なら、任せる」「分かってます。でも、任せるのと、何も確認しないのは少し違う気がして」「エナから朝の連絡は来た」
第111話 竜王から届いた最初の手紙は、同じ城の中からでした翌朝、ミオの部屋へ届いた一通の手紙は、差出人の名前を見る前から、誰が書いたものなのか何となく分かった。理由は単純で、封筒の表に書かれた「ミオへ」という文字が、妙に大きかったからだ。王城で使われる公文書なら、宛名はもっと整然としている。ルシアンから届いた私信も、字そのものは軽快だったが、少なくとも封筒の中央に収まっていた。ところが今回のものは、書き慣れていない人が「これくらい大きく書けば間違えないだろう」と判断したらしく、封筒の半分近くを使って堂々と名前が書かれている。朝食前にそれを持ってきた侍女のリュナは、平静な顔を保とうとしていたが、口元がわずかに震えていた。「こちら、カエル陛下よりお預かりしております」「……同じ城にいるのに?」「はい」「カエル、今どこにいるんです?」「東棟の執務室で、朝の報告を受けておられます」「じゃあ、ここまで歩いても十分もかからないですよね」「おそらく」リュナはそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を下げた。「ただ、昨夜からかなり真剣に書いておられましたので、受け取って差し上げたほうがよいかと」その言い方に、ミオは封筒とリュナを交互に見た。「昨夜から?」「私は直接見ておりませんが、執務室へ紙を追加で運んだ者が三人おります」「そんなに何を書いたんですか」「最初に用意した便箋を何度も破棄されたそうです」嫌な予感がした。長文の愛の告白が十枚くらい入っているのではないか。それなら、昨夜「どうでもいいことを書けばいい」と言った意味がほとんどない。ミオは少し緊張しながら封を切った。中には便箋が三枚入っていた。
第110話 銀狼王から届いた最初の友達の手紙には、愚痴しか書いてありませんでした地下遺跡の三度目の調査を終えてから二日後、ミオは朝から『ミオの食卓』の厨房に立っていた。正面扉の向こうに何があるのかは気になっていたし、「ここより先、名を持ち込むな」と読める可能性がある碑文についても、頭から完全に追い出せたわけではない。それでも、ザラたちの解析が進むまでは再調査を行わないと決めた以上、ミオにできることは待つことだった。以前なら、待っている時間ほど苦手なものはなかった。自分が動いていないと、何か大事なものを取りこぼしている気がしたからだ。けれど今は、煮込み鍋から立ち上る湯気を見ながら、待つことも一つの選択だと思えるようになっていた。「ミオさん、塩これくらいでいいですか?」厨房の反対側からノアに呼ばれ、ミオは小皿へ取られたスープを味見する。「うん、これで大丈夫です。ただ、今日の根菜は少し甘いから、最後に黒胡椒をほんの少し増やしてもいいかも」「分かりました」「でも全部入れる前に、一杯分だけ試してくださいね」「はい」そこへ、パン籠を運んでいたロッドが口を挟んだ。「昨日のミオさんだったら、自分で全部調整してませんでした?」「昨日っていうほど前じゃないでしょう」「最近、成長の速度が速いから」「またそれ言う」「便利なんですよ」「人を成長観察日記みたいに扱わないでください」ロッドが笑う。エナも客席側から顔を出して、「でも今日はちゃんと任せてますね」と追い打ちをかけてきた。「はいはい。褒めても何も出ませんよ」「褒めてるんじゃなく確認です」「それ、カエルと同じ言い方です」「陛下、最近よく言ってますから」
第109話 私は、怖いからこそ「今日はここまで」と言いました二度目の地下調査から四日後、ザラから「奥へ進める可能性がある」と連絡が入った。あのときミオだけに聞こえた声については、その後も研究院で解析が続けられていたが、意味のある言語として再現することはできなかった。現場へ残した簡易記録器にも、それらしい音声は記録されていない。だからといって、ミオの聞き間違いと片づけることもできず、ザラは「外部音声ではなく、魔力に対する知覚反応だった可能性が少し上がっただけ」と慎重な言い方を崩さなかった。一方、問題の石壁については、前回確認した長方形の継ぎ目が、単なる装飾ではない可能性が高まっていた。「壁そのものが扉になってる?」三度目の調査前会議で、ミオが図面を見ながら尋ねると、ザラは頷いた。「たぶん。ただし、普通の扉みたいに押したり引いたりするものではないわね。壁の端に細い魔力導線らしきものが走ってる。今はほとんど死んでるけど、完全には消えてない」「封印ですか?」アルクが答える。「封印の可能性もありますが、単なる開閉機構かもしれません。古い建築物の場合、『外から入れないようにするもの』と『普段閉じておくための仕組み』は区別して考えたほうがいいでしょう」「開けたら何か出るかもしれない扉と、倉庫の戸では全然違いますからね」「そういうことです」カエルは資料を黙って見ていたが、しばらくしてから口を開いた。「今日は開ける?」その問いに、ザラは少しだけ間を置いた。「開ける可能性はある。ただし、そこまで行って周辺測定に異常がなく、扉に明確な警告術式や封印反応がなければ、という条件つき」「誰が決める?」「私とフィア。あと、森側のセフィアが反対したら中止」「ミオは?」カエルの視線がこちらへ向く。ミオは少しだけ考
第108話 地下で聞こえた声は、私の名前を呼びませんでした最初の地下調査から三日後、ミオたちは再び精霊森林の石段前に集まっていた。その三日間、ザラとアルクは壁面から写し取った古い碑文の解析を進め、人間王国側の古語資料、ヴァルディア旧王朝の文書、精霊に伝わる古い呼称まで片端から照合した。しかし、「二人を一つにするな」「火は火、卓は卓」「門は選ぶのではなく、開かれる」という暫定訳を覆すほどの発見はなく、かといって、それが何を指しているのか説明できる資料も見つからなかった。つまり、三日かけて増えたのは、答えよりも「分からない」という確認だった。「研究って、もっとこう、三日も調べたら一つくらい何か分かるものだと思ってました」石段の前で装備を確認しながらミオが言うと、ザラが嫌そうな顔で振り向いた。「夢見すぎ。三日調べて『最初の推測が雑だった』と分かるだけでも十分成果よ」「今回は?」「最初の推測が雑だったかどうかすら、まだ分からない」「もっと駄目じゃないですか」「駄目じゃない。正確」ザラはそう言いながら、自分の鞄から三枚の紙を取り出した。「一応、現時点で増えた情報はある。まず碑文の文字体系は、人間王国で七百年以上前に使われていた古記号と一部共通する。でも完全一致ではない。次に、王城地下の旧宮殿で使われていた記号とも似ている部分がある。でも、やっぱり完全一致じゃない。最後に、精霊側の古い祭祀標識にも似た形が二つある」「全部、少しずつ似てる?」「そう。だから一番嫌なのよ」アルクが横から静かに補足する。「一つの文明が複数地域へ影響した可能性もありますし、逆に後世の人々が古い記号だけを借用した可能性もあります。単純に似た形へ収束しただけということもあり得ます」「つまり、まだ何でもあり」「かなり乱暴に言えば」「最近、その答え
第107話 地下遺跡の壁には、『二人を一つにするな』と刻まれていました石段を下り始めてすぐ、ミオは地上とは空気の質が違うことに気づいた。冷たい。けれど、冬の外気のように肌を刺す冷たさではない。呼吸をするたび、胸の奥へ薄い水が流れ込んでくるような、形のない冷たさだった。先頭を歩くザラは、数段ごとに足を止めて測定器を確認している。その後ろをセフィア、ミオ、アルクの順に進み、最後尾にフィアとカエルがついていた。普段ならカエルはミオのすぐ横へ来たがるはずなのに、今日は決めた役割どおり、後方警戒に徹している。それだけで、少し安心した。「ミオ、今どう?」ザラが前を向いたまま尋ねた。「少し冷たいです。でも、昨日の石段の前より急に強くなった感じはありません」「身体のどこ?」「胸の奥、というか……説明しづらいんですけど、皮膚が寒いわけではないです」「頭痛は?」「ありません」「吐き気、眩暈、耳鳴り、視界の変化」「全部なしです」ザラは頷き、アルクがそのやり取りを記録する。「じゃあ継続。ただし、違和感が一段でも強くなったらすぐ言って」「はい」その会話を聞いていたカエルが、後ろから低い声で確認した。「本当に平気?」ミオは振り返らずに答える。「今は平気です」「我慢してない?」「してません。もし我慢してたら、ザラにあとで怒られますから」「私にも言って」「もちろんです」少し間があってから、カエルは「分かった」とだけ答えた。言葉数は少ないが、それで十分だった。さらに十数段下りると、土と根に覆われていた部分が終わり、完全な